いい加減こんな生活をやめなければいけないの話

いい加減こんな生活をやめなければいけない

と思いました

 

寿命が縮む!

 

今さっきバイトを終わらせて

あんなに急いで走ったのに

結局電車1本乗り遅れてしまった!

間に合うのか〜

 

 

毎日毎日

いつまでこういうことし続けるんだろ

もうこれからもずっとなのかな〜

これはわたしの人間性故なのでもうずっとなのかもな〜

やめなきゃ

大学さえ終われば

もう少し余裕出るんじゃない

 

 

 

 

 

ここではふんわりとした話にとどめようと

具体的な個人を出すことはやめとくつもりだったんだけど

読み返すと、これあの人なんじゃないか

みたいな表現ちょいちょい出てくるな…

ごめん、鶏肉好きな女の子…

 

 

 

 

昨日以前に書いた文章を

過去に早く流したい気持ちがあるからなのかもしれない

更新

もうすぐ大正!

ひとりぼっちについてとかの話

思考の垂れ流しはいい加減やめた方がいいのかな、と思いつつ。

こう言いたいことを書くと、誰かにむしゃくしゃして訴えちゃって

迷惑かけることはちょっとは減るんじゃないかと。

自身の思考の時間を増やせ。

孤独を愛せ、と。

今日は長くなった。

 

バイト中で、そわそわして眠れず

みんなが寝てから作ったので

増して推敲ができていない。ひどい。

いよいよ週1ペースにした方が良いんじゃないか。

 

 

 

 

今日は大学がない日なので、朝起きて、バイトに行く。

そのまま泊まりの方にも。

今日は夕食を作るのがわたしになり、買い物に行く。

なので、少し早めにデイの方を出発させてもらう。

ばんごはん、なにしよ。

泊まりに来るもう一人の女の子が鶏もも肉がとっても好きやから

せっかくやし、もも肉のメニューにしよう、

おいしい鶏肉が買えるどのお店にしよう、とか考えて。

 

帰り道のいつもの市場で買うんやけど

今日は鶏肉を扱ういつものお店が

ことごとく閉まっている!

どうやら火曜日水曜日はお休みのお店が多いらしい。

はー、そうやった。

まあどこかには売ってるやろうと歩いてたが

いやもう、全く売ってない!

鶏肉専門店があるので

他のお肉屋さん数軒を当たっても、当然豚牛しか売っていない。

冷凍のは売ってるには売ってるけど、ちょっとバイト先では使いたくない。

 

はー、学んだ。

またひとつ賢くなりました。

用心します。

そんな日もあるさ。

売ってないなら仕方ない。

そんなのに縛られなくても

違うもので代用したらいいんや、柔軟にね。

豚バラ使お。

あるものを使って回せる生活、すてきやんね〜

 

 

 

 

なんて、ならなかった。

その子は鶏もも肉好きなんや!

何より、わたしは今日考えたメニューのもの作りたい。

こうなってしまったら、わたしは鶏もも肉をどうしても使いたいんや。

畜生、変なこだわりがムクムクと湧きたち

歩いてきた道を戻って

少し離れたスーパーまで鶏もも肉を買いに行く。

 

余裕持って動けるように、と早めに出させてもらったのに

結局慌てて走って、メモした他のもの調達して

時間ギリギリに泊まりのところへ到着。

本当に申し訳なかった。

ああ、なんというか、アホみたいや。

うまいこといかへんもんやな。

 

 

まあ、実はそのあと、冷蔵庫開けたら何故か

渡された、今ある食材リスト、に載ってる

食材と全く違うものたちが残ってたので

結局、考えてたメニューと全然違うものばかり作ることになりました。

溢れんばかりの白菜とか。

この野菜ないやんとか。

味噌だぶっちゃったよとか。

ばんざーい!

何にも思い通りになんて、ならないねぇ。

おもしろいね。

そして、鶏もも肉は、そこそこ、ぼちぼち

おいしくいただけた気がするので、結果オーライです。

オールライト、オールライト。

 

 

 

 

 

 

 

 

鶏もも肉の話はさておき、

 

今週月曜日も泊まりでして

そのときにちょっと気になっていた番組を録画した。

(録画機能があるバイト先ありがたいねぇ。)

「ハートネットTV▽“ひとりぼっち”をみんなで考えようプロジェクトAction5」

 

 

“ひとりぼっち”に悩む人たちの孤立感を少しでも減らそうと始まったこのプロジェクト。番組では“ぼっち”度を可視化する「ぼっちメーター」を開発して公開!これまでに集まった「ぼっちメーター」の利用者3万5千人のデータを、性別、年代、世帯構成などで分類。さらに、学生や子育て中の親などグループ別にも集計し、徹底的に分析。ひとりぼっち解消に向けたアドバイスを行います。"

 

引用おしまい。

 

 

サイトから、ぼっち度を測定できるらしい、と

一緒に泊まってた子と数値を出してみたり

へぇ〜とか言いつつ、家事の片手間に番組を観たり。

 

 

 

ぼっち=孤立、と言い換えて、差し支えないようだ。

若い人に親しみを持ってもらうには

こういう言葉の方がええんかな。

 

長らく続いていた特集の、最後まとめやった。

SNSにつながりを求める大学生や

家族がいても一人だと感じる人たちが出てくる。

番組の半ば過ぎまでは、ぼっち、という言葉に

とっつきにくさを感じつつ

まとめのデータがたくさん出てくるのを見て

ふーん、て感じやった。

 

どうやら、ぼっち度は高いから良くない低いから良いというわけではなく

自己認知をしろ、ということらしい。

 

もう少し続きます。

 

 

 

 

 

終盤、ぼっち部というとあるサークルの人たちが紹介された。

ぼっちが集まり、いろんなところに遊びに行くことでぼっちじゃない!みたいな。

一人ずつの雰囲気をわかった上で

何も気にせず付き合えるサークルとの例として。

 

そこからの、まとめがおもしろかった。

 

 

「孤立感から脱却するには

アナログな関係性に戻っていく必要がある。

 

どうやったらアナログな形の関係性は築けるのか。

 

それには、日本が家族の単位で

家族をもう一度見直す必要がある。

 

家族の中のつながりが強化された上で

初めて、他人に対しての時間が使えるのかを考える。

 

そうして行き着くのは、

他人を支えることで

絶対に自分は孤立化しない、ということ。

 

社会貢献や社会参加という形で

自らの孤立を防いでいく、という

時代に突入していくのでは、と。

 

それがこのプロジェクトで

たどり着きたかったゴールです」

 

 

とのことでした。

ざっくりまとめたらこんなんで合うてるんちゃうかなあ。

 

そうかあ。

おもしろい話やった。

他人を支えることで、絶対に自分は孤立化しないんや。

またいろいろ考えられそうやな。

そりゃ言われたら当たり前な話やろ!てな具合やけど

おもしろいなあ、確かになあ。

 

 

結論は言えないけど

 

考えたことのうちのひとつを挙げるなら

自分のサークルでいたプレハブ小屋の存在は

大きかったなとか思った。

いつでも誰でも集まれる場所で

あそこに行けば誰かはいる。

誰もいなかったら一人でも過ごす。

漫画を読む、作業ややるべきことをする、話し合いをする、だらっと勉強する、遊ぶ、ごはんを食べる…。

別に会話しなくてもいいし、会話してもいい。

仲良いかはさておき、お互い理解している(あるいは理解しようとしている)人たちがとりあえずそこには居る。

そんな場所って、こういう意味でも必要やったんかなあ。

単純にお酒を飲んで夜な夜な語り

ダラダラ過ごせたのもありがたかった。

(堕落を極めた、というのも事実ある気もするけど、集まった全員が全員そんな私みたいだったわけじゃないんだし、と言い訳)

あの場所に居る時間を過ごしたから

また違った思考ができるようになったのかもな。

 

 

あと、ひとりみの会も、

めっちゃ良かったんちゃうんか。

そんな意図まであったかはわからんが。

機能としては同じことも果たしてたんじゃないんかな。

(しかし当時のわたしは

ひとりみの会、こなくそ〜!って、同期で集まって同じ日、同じ時間その裏で

お酒飲みに行ったりしたこともあったっけ…

それもまた良いよね…)

ひとりみのかいって、どういう表記やっけ。

独り身の会…?

こういう各種、集まりも同じように。

 

 

 

 

 

 

あーあ、おもしろいなあ。

孤独を愛しつつも、わたしもそんな場所をまた探したいな。

いろんな人たちに、そういう場所があったらいいのにな。

 

経験していないこと

朝、バイトが終わり

慌てて準備して、原付を走らせて

大学まで直接。

結局今日も間に合ったとは言えない程度

微妙に授業に遅刻して

またや…申し訳ないと感じつつ、授業を受けて

先生と授業終わりに

来年のゼミ生は今のところなんと2人だよ!

2人とは、楽しいゼミになりそうね!

焼肉たくさん食べられるね!やったー!

なんて、話をして

図書館へ。

今日は珍しくあんまり眠くないので

いろんなことができる。

とても眠いバイト終わりの日は

図書館で、はははすみませんね、と目に見えぬ誰かに断って

ちょっとだけ寝てから勉強する。

夕方ゼミが始まる。

 

 

いつの間にか根付いた、そんな習慣。

習慣ができたのを

先週までの自分をなぞって生活することができるのを

幸せに思う。ありがとう日常。

 

 

 

 

 

今度、映画を観に行く約束をしている。

前に一度観に行った映画をまた。

とても良い映画でした。

観に行くこと、すっかり(とまでは言わないにしても、同じ日に仕事の予定が入りそちらに意識がいってしまっていた)頭からすっぽ抜けてしまっていたけど

そうや、思い出した。

人と映画に行くって、あんまりないので楽しみにしている。

しかし、1回目観たときに感想言い合って

帰ってから感じたことが

再び頭をもたげる。

最近何にも共通する話な気もするんだよなあ、この感じ。

言ってもしゃーないんやけどな。

 

その映画は、観た人みんな

違う感想を持つやろうな、という映画。

その人が今まで見てきたこと感じてきたもの次第で

いろんな見方ができる。

…という内容ですねん。

だから特に思うことなのかもしれない。

 

 

経験してないことね。

経験していないことをどうやったら

共有できるんだろうか。

経験できていなかったら、同じ景色は見られないんだろうか。

確実に見えているものが違うと感じているとき

それをどうしたら埋められることができるんだろうか。

そもそも埋める必要はあるんだろうか。

 

自分が身近に思っている好きな人たちが

わたしには無い経験をしていて

それがその人たちの根底にあるというのを察したとき

わたしは、何ができるんだろうか。

 

 

そんなことばっかりやねん。

いつまで過去を羨ましがっていたらいいんやろう。

羨ましい?というか、それは何なの、と伺うことしかできない。

どこでも。

 

なんで知りたいんやろう。

共有したかったんやろう。

知らないことがあることを、こわいと感じるのかしら。

世の中なんて、知らないことだらけなのにな。

 

臆病者だからなのかもしれない。

 

 

 

人を受け入れる度量の広さに

人が集まる、のだという。

 

別に人集まらなくてもいいけど

人を受け入れられるようになりたいな

 

 

 

思い悩んでいる暇はないはずなんやけどな。

 

 

 

もう、そんな

いつまでも昔を羨ましがってばかりいないで

自分で経験を積んでいきたいものですなあ!

負けないくらいの経験!

昔は良かった、んなら今もいいはずやろ!

 

 

まあ、冷静になると

今あまりにも希望がなさすぎるために

めっちゃ焦っていたんやっけ。

それはまたの機会に、や。

 

 

 

 

 

いつまでも考えてることが幼稚。

今日なんてまとまりすらもないしなあ。

最近文章の推敲もできてない訳やし

こんなんじゃ意味ない。

この書く習慣、もっと頻度減らして

週1とかにした方がいいんかな

はあ。

 

去年の終わりくらいから

ちょっとイライラしてんのかなあ。

冷蔵庫にあるお野菜も

また来週の火曜日くらいまで手がつけられなさそうやしなあ。

はあ。

特にたわいない話

今日はいろいろとたくさん文章を書く機会があったので

もうブログは書かなくてよいかと思いましたが。

 

 

えっ、

毎日ここに何かを書くつもりなの。

それは絶対に続かない!

あるいはとても考えの浅い、内容の薄い、

自分にとって意味の無いものになってしまう。

やめておきなさい、

とは思いつつも。

 

 

文章を書く練習。

夜にあまり頑張って書いてしまうと

ずっと思考が終わらなくて脳みそが興奮してしまい

眠れなくなってしまうことに気付いた。

ほどほどにしなければいけない。

それは、朝か昼間に書けば解決するのではないか?

 

 

書くことばかり考えすぎていると

単純に読む時間が減ってしまうことにも気付いた。

それはとても困る。

現に読んでいない本が家にある。

春日野道にあるたまに行く好きな古書屋さんで買ったのもまだ1冊途中なのある。

 

 

あと、とても良い文章に出会って

それについて考えたい!ここに載せたい!と思っても

なんだかもう少し大事にしたいような

自分だけのものにしたいような

もったいないような気持ちになってしまう。

良い文章がもったいないってどういうこっちゃ。

まだ消化できてないからやろうか。

いずれ、ちゃんと思考を深めようね。

 

 

 

 

 

 

拝啓 だれそれ様

今日も疲れました。

バイト中だからでしょうか。

本職に纏わることは今日もあんまりはかどりませんでした。

事務所に行く頻度もこの2週間は減ってしまっていて

少々常ではない事態だったために仕方がなかったとはいえ

少なからず不安です。

最近ずっと、本当にすべきことから目を背けているような気もします。

こんな調子でこれからやっていけるのでしょうか。

わたしがすべきと思うことをしても、その世界で生きていけるかなんて、定かではないんですから。

 

日程が発表されたのでいよいよ試験勉強も

本腰入れてしなければなりません。

いや、それが今一番大事なことなんちゃうかー!

 

 

 

 

 

うーん、負けへんで〜!

そんなん、負けへん!

アンテナを張り巡らせて、これからも生きるぞ。

わあわあ、わあー。

早く、自分が話したいことがうまいこと話せるようになりますように。

六甲道駅が舞台のドラマがあった話

自分のために書くブログなんやからな!と言いつつも

twitterにURLを貼っつけてしまったということは

誰かに読んでほしいということなのか。

 

そんな人さまの目に晒すほどの文章にできるつもりなのか。

そもそもこれは続くのか。

読んでほしいような、ずーっとひっそりとやりたいような。

うーん。

 

 

 

 

今週の火曜日に、関西テレビでドラマがあった。

六甲道駅が舞台のドラマ。

 

 

『BRIDGE はじまりは1995.1.17神戸』は、2019年の1月15日(火)に放送されるカンテレ開局60周年特別ドラマ。

井浦新野村周平葵わかな椎名桔平ら豪華キャストで阪神・淡路大震災後の復旧の実話を元に、みたいな。

 

『1995年1月17日午前5時46分、6000人を超える犠牲者を出した阪神・淡路大震災

神戸の街は、一瞬にしてがれきの山と化し、交通は分断され、陸の孤島となった。
中でも被害の大きかったJR六甲道駅は東西をつなぐ要所。
一刻も早く鉄道を復旧させ、人と物資を運ばなければならない…。

過酷な状況のなか、2年はかかると言われた復旧工事をわずか74日間で成し遂げた人々がいた。

これは、震災の絶望の中、難工事を成功させた男たちと彼らを見つめた
地元の人々との関わり合いを描く、生命力に溢れたドラマである。』

 

 

 

公式サイト引用したら、こんな感じ。

カンテレで火曜日の夜21時からの時間帯

俳優さん勢もとても豪華。

普段関心なくてもこれが知る機会となる人は多いはず!

こういう目に触れる形で震災が取り上げられたら、単純に知識を得る人が増えるんちゃうかな。

自分が住んでいるところの最寄駅がドラマになることなんてそうないし、

駅の話は知ってたからどういう取り上げられ方をするんや、と興味があった。

 

 

しかしね、わたしはその日バイトやったので、観られるかどうかが、確証なく。

家のテレビも録画機能付いてないんよ。

実家ではどうやら録画してくれたらしいが、実家で観るんなんかいつの日になるんやー。

 

当日!

なんか上手いこと言うて

バイト先のグループホームで21時からカンテレにチャンネルを合わせることに成功!

しかも、録画もしていいよて言われた!

(チャンネルが変えられず、そのとき観ているものしか録画できない、同時間で2番組視聴できない仕組みになってるこのテレビ。なので2時間観続けると決めてから録画ボタン押さんと最後まで録れない。なんでやろな。)

 

なのに!

操作ミスって最初の2分しか録れてへんかった!

録画もちゃんとできひんのかいな

この〜あほ助〜どんくさ〜下手くそ〜

と自分を責めても仕方がない。

バイト中はなんやかんやしてるので、ちょいちょいでしか、そんな続けて見られへん。

 

 

というわけで、

ドラマはあったけど、ちゃんとは観てない。

から、そんなドラマがあった話、が正解。

このドラマの内容については何も言えません。

 

 

ようやく、本題に入ってきた。

 

ドラマでは当時の映像が使われて、

実際、六甲道駅周辺で撮影が行われていた。

なんと井浦新も六甲道に来たらしい。

おー、これ今の六甲道やー、とか言いながら観る。

 

 

当時の映像が流れたり、ドラマで語られたりすると

その時間一緒に観てて、やはりそのときのことを思い出して、気を落とす人たちがいた。

当時の記憶を蘇らせ、胸をぐっと詰まらせ、そのことを話す人たち。

 

わたしは当時の記憶はないけれど、縁ある団体に所属していたためもあってか、その話を聞きたい、知りたいと思っていた。

今までも、環境と周りの人たちのおかげで、とてもありがたいことに知識を得る機会には恵まれていた方ではあったとも思う。

しかし、知識を得る機会はあるけれど、何を知ることができたら、当時を知ったことになれるんやろう。

 

何に思いを馳せたら、何を考えたらいいんやろう。

 

ドラマはどんどん進んでいく。

ドキッとする映像も流れる。

 

これ、六甲道駅やから最寄りの大学の学生は、まだな、関係あるなーと観られるとは思うねん。

 

これを見て、どこか自分たちとは違う世界の話に思えてしまう。

生きてる世界とリンクしない、

現実感のない人も存在してしまうんじゃ、と、思った。

 

これだけ壮大に描かれてしまうと

他人事に思えてしまうのでは?

感動スペクタクル?

涙なしでは見られません!

ようできた復興話やなー

 

なんでこんな気持ちになってまうんやろう。

心の寄り添い様?

 

 

そうやねん。

過去に起きた災害、知識としてなんて皆知ってるねん。

 

 

この前、ふと、災害の話になったとき同年代の子が

「震災があったことは知ってるけれど

そういう災害が起きたら、全員一緒に被害に遭ってしまったら、いいかなって。

今知っても準備しても想定しないことが起きちゃったらどうしようもないから。

何か起きてもなんとかなる、って思ってるんです〜」

と話していて、とても悲しくなってしまった。

その子は軽く、そんなつもりで話したんじゃないのかもしれない。

 

でも、

じゃあ、あの人たちの気持ちは

あの人たちの経験はどうなるのか。

 

 

若い人へのバトンを渡す、てな

つなぐ、てな

どうしたら繋げられるんや

そもそもわたし自身には繋がってるんか

 

 

小学校のときから道徳やのなんやので

義務教育の中にも震災についても織り交ぜられている今。

知識としては確かに存在するんやけど

それを自分たちに関係あることとして結びつけることに次のハードルがあるんやないやろうか。

 

こういうドラマや話を他人事に思わなくなることが大事。

じゃあそんな縁遠いように思えてしまう、心的距離の遠いドラマを数作っても同じなんじゃないか。

いつまで経っても。

どうしたら自分に近いものと思えるようになるんや。

何が必要なんや。何を話せばいいんや。

 

自分に関係あるものとして

こういうものに関わっていくのって

とても正直な話、辛いし、しんどい。

悲しい。感情がたくさん溢れる。

 

 

でも、知っていく必要はあると思うねん。

 

知っていく必要あるやんな?

 

 

 

知っていくだけで足るんやろうか。

 

わたしは本当に今、関わって生きていけてるんやろうか。

起きてしまったとき、わたしに何ができるんやろうか。

想定しないことが起きちゃったら、どうしようもないんやろうか。

 

 

 

 

わからへんねん。

 

 

 

 

ずっと、わからへんねん、って考え続けることしかできひんねん。

 

つらいねん。

インフルエンザ

インフルエンザやー。

流行ってる!

大変やなあ。

今年のは熱も高いのんやから、嫌やなあ。

みんな、しんどかろう。

 

気分はエヴァのBGMて、友達が言うてたけど

そんな感じ。

でん、でん、でんでん、

 

 

わたしも1月頭にかかってしまい

ご迷惑をおかけしました。

すみませんでした。

 

わたし、4年前に久しぶりにインフルエンザになってから

結構頻繁になってるから気を付けんと。

 

去年、インフルエンザになったときに

いろいろとしなければいけないことの重なった時期でして

家でもできることがたくさんある

試験勉強とか、読まなきゃいけない本とか、やらなきゃな作業とか。

たくさんあるのに熱が下がっても起き上がれないなんて

甘えや!と荒ぶり、大変に苛立っていたんですが

 

終わってみると身体が軽く、元気ってこういうことやったんやと。

甘えでもなんでもなかったんやで。

 

すごいな、インフルエンザってやっぱウィルスなんや。

普通の風邪とちゃうんやわ。

根っこが神経にまで生えてきてる気分

じみじみとした痛みとしんどさ

医学的に本当にこんなことが起きてるのかは全く知らないから

気分だけそんな感じ。

 

 

要するに

 

インフルエンザのときくらい

無理せず休んでね。

 

 

ふと思ったことだけ。

これぐらい、ツイッターでもええんちゃうの。

ブログをはじめよう

こんにちは。

 

 

お元気ですか。

 

最近のわたしは比較的元気で

ようやく後ろめたくない日々が戻ってきた気がします。

 

おかえり、後ろめたくない生活。

よっ、数年ぶり。

 

何か環境の変化があったからというとそうだろうし

特別これ!という理由があったからかというと

そうでもないのかもしれない。

 

 

とにかく、外向きな生活が再びはじまり

いろんな経験をさせてもらったり

いろいろ感じたりすることがまた、より増え

そして、よく食べて、よく眠り、よく考えるようになりました。

 

しかしたくさん考えているのに、そのままにしちゃって

思考がうまくまとまらず、飛び散って破片となって

それでおしまい、何も残らない、ということがあまりにも多い。

何かをしっかり感じたはずなのに。

その何かってなんやったっけ?

 

 

ツイッターだとどうしても思慮の欠けた甘えた文章を書いてしまう。

つぶやく。

それが正しい使い方なんやけど。

おびただしい言葉の波に飲まれて当然な、思いついたことしか残せないし

その程度のものなんて、自分の思考の中にも、残らない。

 

 

思ったことを自分の言葉にして、人が読むに足る文章にまで昇華する訓練は

とても大事なんじゃないかと。

あとの自分のためにも。

 

今年の目標

人が読むことを意識して文章を書いて残す

人が書いたものをたくさん読む、に

向かって動き出そうと

今日という日に、ブログを作りました。

拙い言葉しか使えないんですが。

少しずつ練習。

 

自分の考えが入っている文章を残したりすることに

とても抵抗があったので

また後で見返すと、やだーってなるかもしれないが

 

 

まあ、それも。それで。